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愚かな親と賢い親 ②
誰だってよく考えればわかることである。ところが、中学受験生をかかえている親御さんは、どうも旧態依然とした教育論にしばられたまま、子どもを虐待してしまっているように思える。そういう思い込みの根拠は何なのかしっかり答えられる親御さんがどれくらいいいらっしゃるのか、疑問を感じざるを得ない。
「自分の時代はそうやって教わったから」
「学校の先生がそうおっしゃっているから。(もしかしたら、塾の先生も)」
という考え以外の根拠がしっかりあるのなら特別反対しようとは思わない。しかし、「学校教育の在り方におかしな所はないか」、ひいては「大人の常識におかしな所はないか」と考えるのが、本当の大人の役割なのではないかと思う。
僕が聞いた話では、小学校の筆算は定規を使って線を引くという。漢字は、あいもかわらずトメ、ハネ、ハライ、そして筆順である。
筆算に関しては、僕の時代(半世紀以上前)にはない指導法である。何か変だなと思いながらも、学校がすることだから間違いではなかろう、あるいは仕方がない、と考えてしまっていないだろうか。
考えるに、筆算とは、暗算で計算しにくい数字を、速く正確に解く方法であり、学習する価値があるものとして認識していた。難しいものではない証拠に、小学校低学年から習えるものだ。定規を使って書くというのは、どうにもその認識と矛盾する。親御さんの中にも疑問を持たれた方は少なくない。だからといって抗議されたという話も聞かない。モンスターペアレンツの時代といっても、やはり大多数の親御さんは公教育に敬意を払って、黙って従っていらっしゃるのだろう。あるいは諦めていらっしゃるのか……。
僕の塾では、「親セミナー」を開講していて、その中で「国語のできる子とできない子」というテーマの回がある。
「できる・できない」の前に、「国語が好きか嫌いか」というのがある。セミナーはそこから始めるのだが、実質的に言いたいのはここなのである。題して、子どもが国語嫌いになる三つの方法(笑)
その一、漢字のトメ・ハネを注意する。
僕の塾では、4年生のうちに6年生までの必修漢字を全て終わらせるが、初めはそんなペースでやれる訳がないと思っていた親子が、三ヶ月もすると普通のことのように思うようになっている。それくらい子どもの脳は覚えることができるのである。ところが、それにストップをかけるのが実は親なのである。「トメ・ハネ・ハライがダメ」とか「書き順がおかしい」とか正論のように注意しだす。すると、子どもはもう「たった一字でもこんなに面倒くさいのなら、もう漢字の練習はやりたくない」となってしまう。
トメ・ハネ・ハライも筆順も、実は習字からきている。美しい字を書く方法なのである。その昔、僕等の時代(現66歳)は、もちろんそうであった。ワープロもパソコンも全く普及していない時代である。美しい字が書けるというのは、それ自体社会的に長所であり、重宝される特技として認められていた。しかし、今の子どもたちが社会に出る頃、美しい字が書けるかどうかを問題にする人がどれほどいるだろうか。トメ・ハネ・ハライに気を配り、筆順をいちいち覚えることに膨大な時間をかけることが、中学受験生にどれほど必要なことだろうか。子ども達が大人になる頃字は書くものから打つものに変わっているはずだ。にもかかわらず膨大なむなしい時間を強いてしまっていないだろうか。「社会に出てから必要なくても、受験には必要でしょう?」そんな馬鹿馬鹿しい勉強をさせることが親の役目だと思っているとしたら、馬鹿親と言われてもしかたがない。
トメ・ハネ・ハライは、くり返し学習しているうちに何とか形になってくるものだ。その前提である「覚え、読む」という作業に親が「完璧」を求めて、やる気をそいでしまってどうするのか。聞いてみたい。あなたは、トメ・ハネと筆順の注意を受け、バツ書き十回を命ぜられた少年・少女の時代を懐かしく思いだすことがありますか?と。もし、自分が面倒で嫌だったと思うのであれば、漢字を学習しないわけにはいかないから、せめて自分たちの時よりも合理的な学習法を与えてやるのが本当なのではないか。自分たちが嫌だったことと同じことをやらせるためには、それが心底役に立ったという確信がなければならない。「美しい字」を書かねばならない時代が終わろうとしている今、旧態依然の学習法を強要しているとしたら、大人(日本)は教育劣等者(国)、時代錯誤と呼ばれても当然であろう。
ちなみに、先日九歳違いの二人の開成合格者が来た。二人共、漢字のトメ・ハネは意識してなかったと言い、親から強制されたこともなかったという。文字の役割は、相手に自分の意図を伝えること、相手の意図を理解すること、である。二人は、無意識的に国語にとって何が一番必要なのか分かっていたのかもしれない。お世辞にも「美しい字」を書いていなかったし、僕もとがめたりしなかった。
その二、辞書を引きなさい。
「わからない言葉があったら、辞書を引いて自分で調べなさい」
これは常套句であり、「正しい国語の勉強法である。」と信じて疑わない大人がなんと多いことか。
僕が塾業界に足を踏み入れて四十年の月日が経つ。その間、大きく変化したことがある。中学入試の国語の問題が難化していることだ。文章難度は、大学入試かと見間違うほど高度になり、しかも長文化している。やっかいなことに、今の時代は子どもの国語力は三十年前と比べて、著しく劣化しているというのにだ。
子どもに辞書を引かせるように指導するようになったのは何故か、という根本にたち返ってみよう。
昔、日本が貧しかった頃、両親も年上の兄姉も小学校を卒業すると、ほとんどが働きに出ていた。年長者が子どもの勉強を教える時間などなかった。そういう時に、自学自習にとても便利なものとして辞書は重宝された。自分所有の辞書などない時代でも学習意欲のある子どもは学校の図書館に通ったのであろう。
僕の時代は家所有の辞書はあった時代になっていたが、その頃の僕は、学校の宿題等で「辞書を引いて調べる」というのは苦痛でしかたなかった。国語という科目は嫌いではなかったのだが、どうにも面倒くさいことは避けて通りたかった。おそらく、現代の子ども達は、より一層面倒に耐える力はないだろう。
僕は、国語力の六割は語彙力で決まるという確信を持っている。今の子ども達の語彙力は二十年前の半分と言ってよいだろう。そこへ持ってきて文章レベルの高い問題を練習させられる。どんどん国語が嫌いになっていってもしかたがないように思う。
小学校の教科書とはレベル違いの文章だから、知らない言葉はページにいっぱい出てくる。いちいち辞書を引いていたら、いやになるのは当然だ。第一、小学生対象の辞書には載っていない言葉ばかりだ。かといって大人用辞書で調べれば、今度は書いてあることを理解できないことが多い。
言葉を獲得する一番は、大人との会話である。家庭の事情にもよるが、その昔との大きな違いは、大人がそこまで忙しくないことだ。
赤ちゃんは、母親から「パパ」「ママ」「ワンワン」と教えられて言葉を覚えていく。わからない言葉を教えてやったらいいのだ、いちいち辞書を引くまでもない。忙しい受験生をより忙しくするのはナンセンス。もともとそうやって言葉は獲得するものなのだ。高校生になって、言葉の意味を知りたくなったら、自分から辞書を引く(今の時代はスマホで調べる)だろう。悠長な徒労を課しているに過ぎない。
子ども達に何もかもムダを省かせるのが正解だとは思わない。むしろ、今の時代、ムダだと思われていることほど大人になって必要なことはたくさんある。しかし、過大な要求をされている中学受験生にもう必要としない苦役をさせるのが正しいと盲目的に信じている親は、もう一度よく考えてみることである。
そして、もう一度自分に問いかけてみよう。
「私は何故子供に中学受験をさせようとしているのか?」
子どもが国語を嫌いになる、「その三」は、次の機会があれば。